子供の頃から変わらない欲求

先日、春日井のカフェたいようさんで催されたキルタンに参加しました。

そこで自分の生来の欲求を改めて自覚し、いろんなことが腑に落ちました。

今回は私語りをしようと思います。

ちなみにキルタンとは歌うヨガ、賛美歌みたいなもの。

ヨガというと体を動かす体操的なイメージが日本は強いですが、これはバクティヨガと言って(真我=神=世界への)「愛を捧げる」ヨガです。

私の話になりますが、中学生の時から、

大いなるものにお仕えしたい、それに私の全てを使って欲しいという強い強い欲求が芽生えました。

その時はまだ訳がわからず、当時全然メジャーでなかった執事になる方法など調べたり、捧げるとはなんだろう??という模索を人に対しても自己犠牲的な(誤った)奉仕として何年も行ったりしていました。明らかに迷っていますね。

しかし、当初からお嫁さんや子育て的なイメージは全くなくて、今となって感じることといえば、どうやらこの欲求は神への献身が正しいようです。

思えば高校生の時から太宰治の名作「駆け込み訴え」を読んではユダのキリストへの愛に共感しすぎて嗚咽したり、小学生の時から宮沢賢治の「よだかの星」や「銀河鉄道の夜」を読んでは「ほんとうのかみさま」は胸のうちにいるけど、身近な世界には見えないと思ったりしていました。

今回ラーマヤナのエピソードでハヌマーン(孫悟空のモデルです)が自分の胸を開いて、

「敬愛する神様二人はいつもここにいらっしゃる」というのを人様の言葉で聞いた時、

ハヌマーンはいつも神にお仕えしていると聞いた時、

またその歌を歌った時、

ハヌマーンは神様がなんて身近で羨ましいことだ、、ああ、これが私の欲求だとやはり涙が止まらなくなりました。

(ハヌマーンについてはご参考までにこちら)

http://www.k5.dion.ne.jp/~dakini/tenjiku/zukan/hanu.html

大学生から仏像にハマったのも、神様の絵ばかり描いてしまうのも、みんな繋がっていて、絵を描くことが「私を捧げて」いることにだんだん近づいてきている気がします。

神様というと日本では宗教的な感じが強いのですが、なんというか、、、

思わず手を合わせるもの、自然全て、命全て、自身の一番核の清いところ、根源、みたいなもので、名前のついている〇〇という神様ではない感じです。

ずっと知っていたけれど今回自身の全てが丸く繋がった感じがして、とても嬉しいです。

素晴らしい機会を感謝いたします。

キルタン主催はこちらの方々。美しい会でした。

https://www.heart-gathering.com/